楽園とは

楽園とは生きることそのものを喜べている人々にあふれた場所

気持ち・心・魂の満足ができている人があふれた場所。
そして、そのさせ方を知っている人々を育てるノウハウ・術にあふれた場所。
 
数や量ではなく、質を大切にされる場所。
そして、そのさせ方を知っている人々を育てるノウハウ・術にあふれた場所。
 
自然のうつろいと一体となって暮らせる場所。
その暮らし方を知った人々を育てるノウハウ・術にあふれた場所。
 
自分の身体とその人生をしっかり使い切ること。その喜びを知ること。
そうすれば、おのずと自分一人ですべてが成立していないことに気が付く。
自分にかかわるものの存在の大切さに意識が働くようになる。
自分の事だけでなく、自分以外の質に意識が働く。
 
これらが折り重なってゆくと、不信・不安・不満・怒り・破壊――この存在が軽減されるノウハウ・術にあふれた場所になる。信頼、安心、満足・喜び・美しい・心地よいが正しさよりも優先される空間。

その未来図は、他と争わない、自身の内面と戦う人にあふれている世界。

楽園を作り上げてゆく、別の言い方で言うならば、持続可能な社会、世界を作り上げてゆくのは、何か新たなものを得る社会活動ではなく、既に得ているものに気づきそれを磨いてゆく。これが世界の質を良くしてゆく社会活動の基本だと考えています。
 
誰でもが生まれ持ったものが世界で一番価値あるものだと認識できること。
 
そして、社会として重要なのは、それを個々に磨いてゆくことが人生の面白いところ、大切なことだと1人1人が自覚できるようになること。

つまり、生涯向上すべきことにあふれているということ。これらの気づくきっかけがあふれていること。
自分を磨く実践の術がそれぞれに応じて社会全体に沢山あふれていること。
教えてくれる人。教えてくれる場所。安心して教われること。
 
そして何よりも大切なのは、これらに不満(クレーム)があれば申告できること。
あらゆる不満が放置されず、不満が改善されること(洗練・良質化)。
そして、教える側も洗練されあい、かつ、経済が成り立つこと。
 
心にまつわるあらゆることが、今の社会のように「怪しい物」「はずかしいこと」の存在にしておかない。社会の真ん中に置く。明確な物にしてゆく。
 
世の中に存在する、あらゆる不信・不安・不満・怒り・破壊の元を解決するためのノウハウが、そこらじゅうにあふれている場所になってゆくこと。これがこの世界から、争いごとをなくしてゆく確実な道。
 
目の前の人、目の前の自然が大切にされることが、楽園につながる=視前楽園

前例とは

前例とは 流れとして都市型の江戸モデルから縄文モデルへ

前例とは 流れとして都市型の江戸モデルから縄文モデルへ
 
大都市が、どのように変化できるかがこの世界の行方に大きくかかわっています。
 
人がこの星で生き暮らし続けるのには、もうこれ以上、自然を無視した暮らしは持続継続できないのは明らかです。また、いつまでも競争を社会活動のモデルとして運営されてゆくことの弊害も明らかです。
 
経済を目的に、目の前の効率で競争を繰り返す限り、自然も、社会の質もおろそかになってしまうのは当然になります。そういう意味で、自然と一体化した原始的暮らし(ネイティブカルチャー)そのモデルが大切になる時だと思っています。また、そのモデルも様々にあります。
 
ただ、今の世界は、大都市が中心となって活動し、その活動がすべてに影響を及ぼしています。その働きを、そこで暮らす人々が絶対多数いる中で、例えば「縄文文化!」という言葉、その意味するところの暮らしのモデルを出しても、「現実的でない!」という一言で片づけられやすいだけです。なので、今の世界に先ず必要なのは、世界が認められる「都市を中心としたモデル」です。
 
それが、江戸モデルという前例です。
では江戸モデルとは?
 
わかりやすい例えでいうならば、「宗教はダメ」「スピリチュアルは怪しい」というのが今の常識です。しかし、私自身が多くの方と話してきて得たのは、「なぜダメなのか?なぜ怪しいのか?」に対して、明確な自身の答えを持つ人は少なかったという事実です。まず、このことを明らかにすることです。つまり、明るみに出すことです。
 
心・魂にまつわることをたった200年も前は当たり前だった社会があるわけです。これは、江戸モデルの特徴的な一例ですが、それが、今なぜこのような常識になっているのか?本当にダメなことなのか?何がダメなのか?良い部分はなにがあるのか?それは、今の時代に必要のないことなのか?人間に、社会に必要のないことなのか?これだけ、心病んでいる人々が増加している世界にあって、非常識にしておくことの意味はどこにあるのか?宗教とはなんなのか?スピリチュアルとはなんなのか?
 
一部の人だけ、地域だけ、島だけ、わかる人だけ、という小さな閉塞した考え方で、社会は、世界は楽園になりません。海をはじめ、空気、大自然を共有しています。人の行き来があります。人が、社会が、明るく、穏やかに、軽やかに、おおらかになるためなら、何が人類にできるのか?前例はないのか?それが、江戸モデルです。
 
江戸モデルが完璧だとは思いませんが、かなり良い感じです
 
 

前例、それは約265年間争いごとを抑えた江戸時代です。

世界に類のない時間を生み出した時代
 
それ以前の戦国の世の中、戦国時代から、争いごとを抑えたため意識が向かい変わった事。兵隊と言う「数」が重要な価値であった世界、状況から、そこに存在する1人がどういう人物であるかにという「質」に意識が向かった、向かうことができた社会を達成した江戸時代。
 
争いに必要な1人から、争いごとを起こさない1人が必要な世の中への変化。同じ1人の人をどう育てるかでの大転換。
 
その結果、江戸時代を=「質(感性)の文化」と呼べるものにしたと認識しています。
 
それは具体的に社会の質を良くするために、争い事が起こらない社会を作り上げるために、江戸時代はお金の使い方(投機でなく投資の在り方)を沢山考えられていた。それを社会の資産として考えていたと思えます。
 
自分磨きのすべ(あらゆる宗教・あらゆる道など)がこれでもかと沢山考えられ共存し、熟成されていたことから理解できます。
 
例えば、京都市にはあれだけのスペースに1600の寺が共存しています(江戸期に全てが成立したわけではありません)。寺を建てる、仏像を作る、浄土(当時の世界で言う楽園)や地獄を描く、庭園で表現する、宝物を作り納める。そこに人が集う、そのような施設があちこちに当たり前のように存在する。結果として、あらゆる立場の人々での「楽園イメージの共有」が成立します。
 
また、全ての地域の八百万の神々を認めるリスペクトの文化。
 
つまり、それぞれの個性を認める文化を成立させていました。これらは「争いごとをしないためにはどうすればよいのか?何があるか?」という「明確な指標」を持って、「新たな常識」を作りあげるべく、これを活動軸として徹底的に膨大な時間をかけて多くの人が参加した賜物。 多くの投資が繰り返された結晶と言えます。
 
1つの宗教や、若年時代だけの義務教育などで成立するものではなく、全ての人が共有できるように社会の隅々に情操教育が行きわたること。良質化へのあらゆることが折り重なりあう事。
 
日本の優れた美術工芸品や食文化が育まれたのは、この根本の取り組みあっての副産物と言い切れます。自然に敬意を払い、物に敬意を払い、人に敬意を払うことが出来る人を仕事を通じて育てている。つまり、人の質を育てられる社会の結果が形になって残ったと言えます。
 
このような、新たな常識への変化をやり遂げている前例が明らかにあります。
 
江戸時代が終焉をむかえなくてはならなかったことからも、そのものが完璧であったわけではないでしょう。ただ、当時の世界で、楽園(太平の世)を目指し、実行した確かな事例があるわけです。
 
楽園を作り上げてゆくのは、別の言い方で言うならば、持続可能な社会、世界を作り上げてゆくのは、「何か新たなものを得る社会活動ではなく、既に得ているものに気づき、それを磨いてゆく社会活動」。
 
それには一部の人々の活動ではなく、社会全体として質感の文化・社会を築き上げた経験値が有用だと確信しています。
何より、そのような転換、移行ができたという事実があることです。
 
人類は、物を溢れさせる仕組みを手に入れました。そんな、私たちの世界にこれから必要な物は何か?明らかに不足しているのは笑顔です。そして、その質です。人類が手に入れるべき次の仕組み、その前例です。